2000年10月
21世紀に向け、早稲田大学の大隈講堂をどう使っていくか--こんなテーマで、早稲田大学教員や学生、OB、大学周辺住民らが議論するシンポジウムが2000年10月27日、早稲田大学の大隈講堂で開かれる。
大学側が7年後の創立125周年に合わせ、多機能型の文化ホールへの再生を計画しており、理工学部の研究者らが、教員や学生、卒業生や地域住民も含めた「オール早稲田」で意見を交わそうと企画した。 当日は「私にもひとこと言わせて」と、各界で活躍するOBの著名人らも駆け付ける。
シンポは、奥島孝康総長や理工学部で建築を専門にする研究者、地元の商店会長やライバル校の慶応大理事らが参加する。
中でも目を引くのはOBの面々だ。司会者の大橋巨泉さん、ジャーナリストの田原総一朗さんと筑紫哲也さん、アナウンサーの露木茂さん、漫画家の弘兼憲史さん、野球解説者の谷沢健一さん……。多彩な人材を輩出した早稲田大学らしく、それぞれが在校当時を振り返り、大隈講堂への思いを語るという。
早稲田大学は、2007年に創立125周年を迎える記念事業の一環に大隈講堂の「多機能型文化ホールへの再生」を掲げ、2000年4月から募金活動を始めた。具体的には未定だが、外観を変えずに映像・音響設備の充実を図るなど使い勝手のよさを考慮し、部分的な改築・改修を含めて検討する。
大学側の計画を知った理工学部の建築史研究室が2000年4月、大隈講堂を研究対象として見直すことに決め、学内に残された設計図を集めたり、設計図が見つからない個所は実測したりと調査を始めた。
この調査に加わった大学院生の一人が、「ケンケン」の愛称で知られるエッセイストの見城美枝子さん。「研究成果を発表する場を作ったら」という見城さんの提案で、建築史的な価値を見つめ直し、早稲田大学にかかわる人の心象風景の中にある大隈講堂を検証することで、「再生計画」に一役買うシンポを研究室が開くことになった。当日の司会は、その見城さんが務める。
大隈講堂は創立45周年の1927年に落成した。ゴシックとロマネスクの両様式を折衷した外観で、内部は曲面が多用され、宇宙を表現した天窓が配されている。インドのネール首相や米国のロバート・ケネディ司法長官、フランスのミッテラン大統領、フィリピンのアキノ大統領、米国のクリントン大統領(役職はいずれも当時)のほか、ヘレンケラーやカラヤンらも来訪。1969年には学園紛争で学生に占拠された。
早稲田大学建築史研究室の中川武教授(当時56歳)は「大隈講堂のたたずまいを見て、時代は移り変わっても、変わらぬ理想を思う人が多いはずです。大隈講堂をどうするか考えることは、早稲田大学の未来を考えることになる。卒業生や地域住民の皆さんに大いに参加してほしい」と話している。
シンポは午後1時から6時まで。入場無料で定員は1400人(先着順)。
●計画を情報公開し、賛否両者の合意を
エッセイストの見城美枝子さん(1968年卒)
早稲田大学が大隈講堂の再生を掲げる一方で、建築の専門家の中に「歴史的建造物として残したい」とする声があるのを知り、両者をつなぐ橋渡しを、とシンポ開催を考えました。
手直しして愛される講堂を目指す大学の考えに賛成しますが、補修の仕方を間違えると文化的価値が損なわれる。実際、だれもが残したいと思う名建築の数々がいつしか壊されたり、移築されたりして姿を消しています。
大隈講堂は国の重要文化財に指定してほしいほど、早稲田大学と周囲の街に欠かせないシンボル。大学に今後、計画を情報公開してもらい、皆のコンセンサスを得るきっかけにしたい。
●青春時代の記念碑、手を加えず残して
漫画家の弘兼憲史さん(1970年卒)
大隈講堂の再生計画には反対です。
あこがれの早稲田大学に入学し、最初に見上げたのが大隈講堂だった。
当時は高田馬場から早稲田大学まで建物が軒並み低く、校歌の「そびゆる甍(いらか)」を象徴するように講堂の時計塔が遠望できた。最近は周りに高いビルが建ち、母校にも新しい立派な校舎が増えましたが、大隈講堂は地味でいい。改修や改築し過ぎると文化財指定も受けづらくなる。
早稲田から大隈講堂が無くなったら早稲田でない。手を加えずに青春のモニュメントとして残してほしい。